PHOTO YODOBASHI

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デザイナーであり写真家、高橋俊充の場合。

高橋さんには「写真家」と「デザイナー」のふたつの肩書がある。写真を撮る。デザインをする。高橋さんの写真集作りを語る上で、これは重要なポイント。写真家としての高橋さんを語ろうとする時、同時にデザイナーとしての高橋さんについても触れなければならない。

「デザイン」とひとくちに言ってもいろいろだが、高橋さんが居るのはいわゆるグラフィックデザインの世界。デザイナーとしての高橋さんの仕事は、ここでその一部を見ることができる。企業や商品がもっている魅力を、ロゴタイプやポスター、パッケージなどの図案で表現するのがグラフィックデザイナーだが、さらにはそれらを組み合わせてイベントの全体的なイメージを作り上げたり、地域の良いところを世にアピールするなど、その仕事は幅広く、かつ多層的。編集から装丁までを手がける「本を作る」という仕事も、その一つ。

一日中、絵ばかり描いていた子だったそう。他の勉強はさほどでも、美術だけは常に最高の成績。「本当はイラストレーターになりたかった」と高橋さん。事実、生まれて初めて「自分の作品」を世に発表したのは、デザインでも写真でもなく、二十歳の時にやったイラストレーション展だった。実は写真を撮り始めたきっかけもイラストレーションにある。「吉田カツというイラストレーターが僕の憧れでした。のちに個人的な親交を結ばせていただくようになって、その経験は人生の糧になっています。もう亡くなって10年経ちますが、作品はもちろん、人間としても未だに尊敬してやまない、僕が勝手に師と崇めている人。その吉田さんの制作手法の一つに、自分で撮った写真を元に絵を描くというのがあって、自分も真似をしてみたんです。それが写真作品の始まり」

デザイナーの仕事として、デザインに必要な写真を撮ることはたびたびあったが、「写真家・高橋俊充」が誕生したのは2012年。写真雑誌に掲載された作品が関係者の目に留まり、某カメラメーカーの広告とカタログの写真を手がけることになったのだ。以来、写真家としてのキャリアも順調に重ねていく一方、プライベートな制作活動も精力的に行い、およそ2年に一度のペースで写真展を開催。世に出した写真集もすでに3冊を数える。「Snaps Sicilia」「Snaps Italia」そして最新作の「Snaps Morocco」。タイトルはすべて「スナップス」で一貫している。

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「そうなんです。僕が撮りたいのはスナップ。僕の写真の持ち味は、絶対非演出の、"自然体の日常"だと思っています」

"自然体の日常"とはどういうことだろうか。

「僕が撮る被写体は人。それもそこに住んでいる、そこで日常を送っている人。『そこ』と言うからには環境、つまり背景は重要。だからイタリアやモロッコなのですが、でも中心は常に人。僕は人を撮る時に、笑ってくださいとか、そこに立ってくださいとお願いしたことは一度もありません。写真を撮ってもいいですかと訊いたことすら、ほんの数度。そこに居るままを撮る。それが"自然体の日常"」

中には、そういう風に撮られることを快く思わない人もいるはず。

「相手の同意なしに撮ることが礼儀正しいとは言えないのは、どこの国でも一緒。それを『自然体』という耳心地のいい言葉で包んだって、そんなの、ただのエゴでしかないんですよ。時にはカメラに気づいて笑顔をくれたり、ポーズを決めてくれることもあるけれど、礼を欠いた撮り方をしていることに変わりはないんです。だから撮る場面とか、どういう風に撮るかについてはめちゃくちゃ気を遣う。文化とか宗教、生活習慣の違う国に行くと、興味深い光景がたくさんあります。そういうのって、たいてい絵になるんですよね。つい撮りたくなる。でもそれは日本人の僕の感覚であって、相手からしてみたら、写真に撮られたくない姿かもしれない。常々思うのは、『写真は誰のものか?』ってこと。僕は、半分は被写体のものだと思っています。だから人を撮るんだったら、その人が素敵なワンシーンの主役であるように撮りたい。失礼な撮り方をしているからこそ、撮った結果は失礼なものにしたくないんです」

被写体の反応を、実際に見たことはあるのだろうか。

「一度、イタリア南部に携帯型フォトプリンターを持参して、その場でプリントを差し上げながら歩いたことがあるんです。カメラを持った東洋人に白いカードを渡されて、最初は怪訝な様子で眺めているんだけど、だんだん像が浮かび上がってきて、それが自分だと分かると、『いつの間に撮ったんだ?』なんて言いつつも大喜びしてくれて。すかさず『男前に写ってるだろ?』とか『あなたは美しい』って言ってあげると、もう、周りの人に見せて歩いてる。相手が喜んでくれる写真が撮れたなら、こっちも嬉しい」

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高橋俊充という写真家が、どんな考えで、何を大切にしながら写真を撮る人なのか、だいたいお分かりいただけたと思う。では本題の「紙であること」について。改めて、なぜ紙なのか。

「僕がグラフィックデザイナーであることが大きいと思う。『紙の上にあるもの』にずっと魅せられてきた人生だったから。まぁ、要するに紙が好きなんですよ」

今や、プロジェクターや壁に埋め込んだ液晶画面で作品を展示する写真ギャラリーもある。

「デジタルで撮ったものはデジタルで見せるのがいちばん自然だと思う。だって、それが『何も足さない、何も引かない』、いちばんピュアな見せ方だから。でも、やっぱり僕は写真に"質感"を求めてしまう。つまり表面の光沢だったり、テクスチャーだったり、手触りだったり、重さだったり。あるいは少し反ってるとか、皺があるとか。もっと言えば匂いだってそう。写真展でホントに作品を撫でたら怒られちゃうけど、でもそれは確実にそこにある」

写真展のプリントはインクジェットプリンターで?

「そうです。ただし注釈が必要。これはモノクロ写真に限った話ですが、数年前から『DGSMプリント』という技法を採り入れて作品を作っています。DGSMとは『デジタル ゼラチンシルバー モノクローム』の略で、デジタルカメラから銀塩のモノクロプリントを制作するプロセスのこと。要するに『ネガ原板』をインクジェットプリンターで作るわけです。モノクロの濃淡を反転させたデータを作って、それを透明のフィルムにインクジェットでプリントする。そこから先は銀塩プリントと一緒。そのネガの画像を感光紙に焼き付け、それを現像液、停止液、定着液へと順に浸けて、最後に乾燥させてプリントができあがる。ただし引き伸ばしはできず、いわゆる『密着焼き』で作ることになるので、予めプリントしたい大きさを決めてネガを作る必要があります」

大きなネガの密着焼きなら、さぞかし美しいプリントができあがるだろう。

「ネガの濃淡って、ホントに微妙じゃないですか。肉眼では分からないようなディテールが、プリントしてみると如実に現れたりする。しかもそれが密着焼きとなると、ネガと紙の間で発生する損失は限りなくゼロと考えていいから、ネガにある情報がそのまま額面通りに紙へ写しとられてしまう。古臭いやり方のように見えるけど、結局は元になるデータと、インクジェットプリンターの性能がものを言います」

そこまでするなら、いっそのこと銀塩フィルムで撮ればいいのでは。

「別に懐古趣味とか、プリミティブなものへの憧れでこうしているわけじゃないんです。現代に生きる写真家として、デジタルカメラの恩恵はあたりまえに享受したい。一方でプリントとしては、銀塩の風合いが感じられるものが好ましい。結果的に、これらのハイブリッドであれば自分が望む作品ができあがる。ただそれだけ」

写真展も写真集も、どちらも紙にプリントされたものだが、両者に違いはあるのだろうか。

「僕にとってはまったくの別物です。写真展のプリントは、『写真として』見て欲しい。でも写真集は、『本として』見て欲しい」

本として。

「それは僕の中の『グラフィックデザイナーの部分』の思いでしょうね。写真展では『写真家としての私』が主役で、グラフィックデザイナーとしての私にできることはあまり多くありません。郵送する案内状のデザインとか、マットの切り方で写真をどう見せるかとか、そのぐらい。ところが写真集は両者の共同作業。でも最後にキャップを閉めるのは、常にグラフィックデザイナーとしての私です」

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写真家である前に、グラフィックデザイナーであるということか。

「僕が作りたいのは『本』なんです。企画から編集、デザイン、装丁まですべて自分でやって、最後に『写真』を『本』という最終形態へ変化させる。別に自分の写真じゃなくてもいいんです。自分にとって魅力的な作品であればブックデザインに携わりたいと思う。とにかく、自分の意匠で、自分が納得する本を作る。そうして自分のデザインがモノとなって残されていく。それは誤って削除されてしまうものではないし、時間とともに揮発するものでもない。これこそデザイナーとして何物にも代え難い、最大の喜びなんです」

「本」というカタチへの徹底的なこだわり。

「それね、自分が買う写真集でも同じなんですよ。写真はイマイチ自分の好みじゃないとしても、本として見た時に素晴らしければ、多少高くても喜んで買います。逆に、いくら素晴らしい写真が載っていようと、本として魅力的じゃなければ、それにお金を出す気にはなれない」

本末転倒な気もするが。

「それは『写真集というのは写真が重要であって、本としての出来映えは二の次』という考えがあるからですよ。その考えは否定しません。むしろそれが普通なんだとも思う。僕が『写真と写真集はまったく別物』と言っているのはまさにその部分。もはや、それは写真ではなくて本なんです。だから本としての魅力を求める。シンプルだと思うんだけど」

「中身に依らない、本としての魅力」というのが、まだピンと来ない。

「それは『ブックデザイン』というものがまだまだ認知されていないからだと思う。『デザイン』が大きなウェイトを占めているクルマに置き換えてみましょうか。安全に、快適に、低コストに移動できるのがクルマに求められるもっとも大事なこと。これは真実ですよね? だからといってデザインをまったく気にしない人はいないし、中には『快適性なんか求めない。燃費も悪くていい。とにかくカッコいい、美しいクルマが欲しい』という人がいたって、別に不思議ではないでしょう?」

それほど「本」としてのこだわりが大きいと、タッグを組む印刷屋さんも、どこでもいいってわけではないだろう。

「最初の写真集を作る時にいろいろ探したんですが、富山県にある山田写真製版所というところにお願いしました。それ以来ずっとここにお願いしていて、今はもう、この会社なくしては僕の写真集は作れない。そのぐらい、全幅の信頼をおいています」

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印刷屋さんによって、そんなに違いが出るものなのだろうか。

「印刷・製本をしてくれる会社はいっぱいありますが、写真印刷に特化して、本当にレベルが高い仕事をするところは国内にいくつもありません。山田写真製版所はその一つ。もちろんこの世界では超有名です。僕にとってはすぐ隣の県という地の利もありますが(編集部註:高橋さんは石川県在住)、やはり印刷のクオリティが圧倒的。本当に手間をかけて、いろいろ試行錯誤しながらベストのやり方を探し出してくれます。それは印刷に関わる人たちが高度なノウハウを持っていることはもちろんですが、加えて、写真に対する造詣が深いからなんですよ。僕の写真を分かってくれているんです」

高橋さんの写真を分かっている・・・

「写真集の場合には自分で原稿データを作って入稿するわけですが、『画面で見える通りに印刷してください』なんて言っても無理なんですよ。どうしても紙になることによって足されるもの、引かれるものが出てくる。まったく同じ物なんてそもそも出来ない。じゃあ、元データのイメージに近づけつつも、足されるなら何をどう足すのか。引かれるならどこをどう引くのか。そこはプリンティングディレクターさんのセンス、というかもはや哲学の領域。『高橋の写真はこうあるべき』という理念が無いと答えが出ない。そしてその答えに、僕は毎回満足させられている。そういうこと」

この先、高橋さんの写真はどうなってゆくのだろう。

「人はこれからも撮り続けていくと思う。いくら撮っても興味は尽きないし、これはもうライフワーク。一方で、人間の表情や仕草って、被写体としては極めて具象的でしょう。分かりやすい。だからその反対の、抽象的な写真も撮ってみたいと思い始めています。具象的な写真は、撮った人と見る人をつなぐ線が太くてストレート。伝達ロスが少ない。それは裏を返すと、広がりやヒネリが生まれづらいということでもある。その点、抽象的な写真は両者をつなぐ線が細くて、無数にある。惹かれますね」

それぞれにとっての「写真集」
感じる魅力とアプローチの方法

写真集をつくる、ふたりの男の話

( 2021.09.30 )

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