PHOTO YODOBASHI

ヨドバシカメラ公式オンライン写真マガジン

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じぶん史上最高の写真集
#1 Cafe Lehmitz / Anders Petersen

Text by NB

こんな日々ですが、みなさまお変わりありませんか。写真を撮りに出かけたくても、今は辛抱ですね。思う存分写真を撮れる、あたりまえの日常は必ず戻ってきます。それより今は命が大事。この機会にゆっくり写真集でも眺めて、おうちで静かに過ごしましょう。

というところから「自分がいちばん好きな写真集を順番に紹介する」という企画が持ち上がったわけです。「いちばん」ですから、当然一冊。でも少なくとも私の場合、悩む必要はまったくありませんでした。写真集というものが大好きで相当な数を集めてきましたが、その中のベスト、それも他を圧倒してダントツの1位がこれです。しかし、のっけから出鼻を挫くようなことを言いますが、これは誰が見ても気に入る写真集ではないと思います。むしろ、生理的に受け付けない人の方が多いかもしれない。

「ねえ、どこかに良い居酒屋さん知らない?」と訊かれて、本当はすごく好きな店があるんだけど、そこではなく、もうちょっと万人受けしそうな店を紹介したことが、みなさんにもあるでしょう。もちろんそれは、とっておきの店を秘密にしておきたいからではなく、「あの良さが分かってもらえるかどうか自信がない」という、どちらかというと「気後れ」から来るものではありませんでしたか。

悩む必要は無かったと言いつつも、若干の気後れを感じながらの紹介ではあります。もっとみんなに「いいね!」と言ってもらえる写真集を紹介すべきだったかなとは、ここまで書いた今でも少し思っているのですが、でもやっぱりそれじゃ面白くない。第一、「じぶん史上最高」が偽りになってしまう。なので「この良さが分かってもらえるかどうか自信がない」のだけど、私のように完全にヤラレちゃう人だって中にはいる筈で、なんとかこの魅力が伝わるといいなあと思いながら書いています。

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これがどんな写真集かと言うと、タイトルになっているCafe Lehmitzというのは、ドイツのハンブルクに実在した酒場の名前。そこに夜な夜な集う酔客の姿を、モノクロフィルムで撮影したドキュメンタリーです。この酒場にやってくるのは、いわゆる最下層の人々や、ワケあり職業の人、大手を振って表を歩けない生き方を選んでしまった人たち。ドイツも日本と同じく戦争でコテンパンにやられましたが、戦後の復興は目覚ましいものがありました。世界に冠たるドイツの工業製品といえば、まず自動車。だれでも知っているポルシェ911が発表されたのは1964年、戦争が終わって19年後です。そしてカメラ。ライカM3は1954年の登場。こちらは終戦からたった9年です。その時点で、もうあんなものを作っちゃってたんです。そこには力強い新生ドイツの姿がありますが、でもそれはドイツの「ある一面」に過ぎません。人々の実際の生活はどうだったんでしょう。撮影されたのは1968年から1970年にかけて。戦争が終わって20年ちょい。新時代へ向けてのリスタートはとっくに切られていたものの、まだまだ戦後の混沌を引きずっていたのではないでしょうか。東西分裂。壁の建設。そこからの冷戦。社会情勢だってめちゃくちゃ不安定でした。多くの人にとって、戦争で多くのものを失った傷は未だ癒えず、期待と不安が、希望と失望が、まだ混ぜこぜになっていた時代だったと思います。

撮影者のAnders Petersenは、1944年スウェーデン生まれ。そうです、ドイツ人じゃないんです。彼は10代の終わりにヨーロッパ各地を旅しましたが、その際、偶然この店に立ち寄っています。その時の印象が忘れられずに23歳で再訪。その後3年間かけて撮影をおこない、1978年に写真集として発表しました。これがもしドイツ人だったら、このような写真は撮れなかったと思います。撮らなかった、というか。「戦後に育った外国人の若者の視点」が、これらの写真のベースにあるように私には思えるのです。

ここに写っている人たちはみな、笑ったり、ふざけたり、ポーズを取ったりして、(中には少々度が過ぎたものもありますが)とても楽しそうにやっています。国や時代を問わず、酒場とはそういうものです。しかし、どうも引っかかる。何かがおかしい。それは、どの写真を見ても、心の底から笑っている顔が一つもないのです。無理やり胃袋に酒を流し込み、がんばって、必死に笑っているように見える。酒の力を借りても消しきれない不安や不満、哀しみ、やるせなさ、怒り、諦め、寂しさ。それらが滲み出てしまっている。そして、最初から勝ち目などありゃしないのに、この人たちはそれらに必死に抗っている。Anders Petersenがフィルムに焼き付けたかったのは、それだったと思います。スウェーデンといえば、第二次世界大戦が勃発した1939年にノルウェー、デンマークととともに中立国宣言をしましたが、その3カ国で唯一、ナチスドイツに国土を占領されていない国です。さらに戦争のさ中にあっても英国、ドイツの双方と貿易を続けた国でもあります。要するに直接的に戦争の痛手は受けていない。それどころか繁栄すらした国なんです。そんな国で戦後育った若者の目に、この店の客はどう映ったのか。一見、不死鳥のように甦ったかに見える国の、底辺の荒(すさ)みを、彼らを通じて見てしまったのだと思います。

写真の定義を私は知りませんが、私にとってこの写真集は、「写真って、こういうものだよね」ということを教えてくれた一冊です。そのひとことに尽きます。それだけ言えばじゅうぶんだったのに、つい長々と書いてしまいました。この中に、いわゆる「美しい写真」は一つもありません。もちろんお洒落でもありませんし、格好良くもありません。写真の技術も、ど直球であること以外、特筆すべきものは何一つ無いように見えます。でもどの写真も、私にとってはこの上なく美しく、愛おしい。写真って、そういうものです。


裏表紙に、この店で撮られたAnders Petersenの近影があります。彼はカウンターにもたれかかって、決して裕福には見えない、お年を召した御婦人と何やら話をしています。伸びきった髪。年季の入った革ジャン。その間に、精悍な横顔があります。そして、カウンターの上にはシルバーのニコンF。この写真を見て、速攻でシルバーのニコンFを買いに走ったことは言うまでもありません。

Cafe Lehmitzは70年代に閉店しました。現在、ハンブルクの同じ通り(Reeperbahn)にCafe Lehmitzという生演奏を聴かせるパブが確認できますが、かつてのお店との関係は分かりません。正式な後継者が現れて再スタートしたのかもしれませんし、この写真集が有名になったので、それにあやかって名付けただけかもしれません。いずれにせよ、この写真集にあるようなお客さんはもういません。はるか昔の話です。

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( 2020.04.30 )

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この写真集は残念ながらヨドバシカメラではお取り扱いしていませんが、表紙にもなっているカットをジャケットに使った、トム・ウェイツの傑作アルバムがあります。というわけでこの男性がトム・ウェイツだと思っていた人、実は違いますからね!(でも確かに似ている)

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ニコンFも残念ながらお取り扱いしておりません(当たり前ですね)。でも、その末裔ならございます。もちろんここはシルバーでしょう。

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