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ニコン100周年記念 PY特別インタビュー 後藤フェローにいろいろ聞きました。

第3回 鍋をつつきながら、夜は更ける

陽もとっぷりと暮れ、気温も下がった屋外から室内に場所を移してインタビュー再開。この間に湯船に浸かってきた後藤フェローと広報の横浜氏。「ああ、お腹空いたね」と席に着く後藤フェロー。すでにテーブルの上では鍋料理がスタンバイし、なんとも言えないいい匂いが漂っている。リラックスした雰囲気の中で、さらにどんな面白い話が聞けるのか。それではインタビューの最終回、スタート。

聞き手:K(PY編集部)
写真:K / Z II(PY編集部)
文:NB(PY編集部)

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いよいよデジタルへ

後藤フェロー(以下「G」): えーと、どこまで話しましたっけ?

編集部K(以下「K」): Fのお話が終わって、ここからはDの話です。

G: ああ、そうでした。D1の時はですね、私は開発チームには入ってなかったのですよ。先ほどもお話しした通り、D1はF5とF100をベースに作られましたが、私はフィルムカメラ系全般の開発の親分をやっていた関係で、D1の開発チームにボディーメカと要素技術を提供する立場でした。

K: ご自身が開発を担当されたボディーに、デジタルのセンサーが載るのって、どんな感じなんでしょう。

G: 実際には単に載せたわけではありません。両者を合わせる開発はもちろん感慨深くはありましたが、それよりもフィルムから撮像センサーに変わるだけで想像もしていなかった事態がいろいろ起きて、それどころじゃなかったですね。

K: 例えば?

G: 一例を挙げると、スピードライトの制御。F5はフィルム面からの反射を測って制御しているのはご存知のとおりです。ところが、これが撮像センサーに変わるだけで、もうその方法が使えないのです。乳剤面とローパスフィルターの反射率がまるで違うので。

K: はぁ、なるほど。他にもいっぱいあったんでしょうね、そういうことは。しかし、そうは言っても「F5あってのD1」ではあったんですよね?

G: それは間違いないですね。それほど、F5とF100、それぞれの要素技術も完成度の高いカメラでした。

K: D1の発売は確か1999年でしたよね。もうデジタルカメラ自体はいくつも製品化されていましたし、デジタル一眼レフもすでにありましたが、D1が出て、「ああ、やっとデジタル一眼レフがコンシューマーに降りてきたな」と思ったのを覚えています。性能と価格のバランスという意味で。それでもおいそれと買えるような価格じゃなかったですが。私、もし「忘れられないD一桁をひとつ挙げろ」と言われたら、D1Xを挙げます。

G: 私はD1XとD1Hの二つから開発の元締めをさせてもらいました。で、D1Xが好きと言うのは?

K: 私がD1Xが好きな理由はですね、なんというか、表現が難しいのですが、画が「生っぽい」んですよね。それまでの写真の世界には無い価値観を持った画というか。

G: ??

K: えーとですね、それまで使っていたポジの画とは明らかに違う「雑味」のようなものが、かえって妙なリアリティを産むというか…

G: それ、褒めていませんよね?(笑)

K: いや、ワタクシ的には褒めております!(笑)

G: 逆に聞きますが、D2Xはどうですか?

K: どうしてもポジとの比較の話になってしまうんですけど、ポジの画って、省略された画じゃないですか。写るところと写らないところがハッキリしているというか。D1はまだその範疇にあったと思うんですが、D2Xになって、フィルムでは写らないところまで写るようになった。それがD2Xの印象です。ここでデジタルの強みが発揮され始めたというか。後藤フェローは、Dシリーズはどこまで元締めとして関わっていらっしゃったんですか?

G: D3シリーズの最後、D3Sまでです。で、そこからちょっと間をおいてDfですね。

K: では、D3にはいろいろと思い入れがおありでしょう?

G: そうですね。変革というか、エポックメイキングというか、やはり最初のフルサイズですから。しかもシェア奪回というとても大きなミッションを背負っていましたし。

K: フルサイズ化で一番大変だったのはどこですか?

G: フルサイズだからという訳ではありませんが、先代の打ち立てた「きれい・はやい・つかいやすい」を本当に高度に実現させることでしたね。フルサイズとして一番問題だったのは、センサーの価格です。

K: ああ。ロットあたりの単価は、単純計算で倍ですもんね。

G: 一枚のウエハーから取れる数で言うと、半分以下です。でも、それには生産サイドもよく応えてくれましたね。

K: やはりD3が一番大変でしたか?

G: 今思い返してみると、大変だったのはF3とD3ですね。F3の時はまだ使い走りみたいなものでしたけど、体力的に大変でした。それに対してD3は精神的に大変でしたね。開発を統括する立場として、これがダメだったら俺たちは本当にヤバいぞ、という「生きるか死ぬか」の瀬戸際でなんとか放ったクリーンヒット、本当に幸いでした。

K: 「ヤバいぞ」というのは、つまりキヤノンの存在?

G: もちろんそうです。

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今回のインタビューでぜひ聞いてみたかったのが、ライバルメーカーのこと。技術力や販売シェアではしのぎを削る好敵手であると同時に、日本のカメラ界、写真界を一緒に盛り上げていく仲間でもある。後藤フェローはライバルメーカーをどう見ているのか。

ライバルメーカーのこと

K: キヤノンのことはどう思っていらっしゃいます?

G: いきなりド直球ですねえ(笑)。真面目に答えるとリスペクトしていますよ。尊敬すべきライバルです。

K: そう言えば、私が最初に後藤フェローをお見かけしたのは、リコーのGR5周年の記念イベントでした。すでにお顔は存じ上げていましたから、「あれ?どうしてこの人がここにいるんだろう?」と思ったことを覚えています。

G: そうなのです。そういう場所に呼ばれたりすることはよくあります。

K: キヤノンのすごいところってどういうところですか?

G: 具体例はお話しできませんが、いったん目標をロックオンした後の、実行力というか、そこに向かうパワーがすごい。組織力、マネジメント力と言ってもいいかもしれない。ちょっとかなわないなあ、と思ったことは何度もあります。今度、こういうインタビューをキヤノンさんでやって、どうやって仕事を進めているのか聞いてきてもらえませんか(笑)

K: あっははは。ライバルメーカーの動向って、どこまで掴んでいるものなんですか?

G: いや、まったく。みなさんの耳にも入る噂話を、私たちも同じように知るだけです。そこから推測するだけですね。

K: 産業スパイのようなものは居ないと。

G: それはテレビの見過ぎですよ(笑)。

K: しかし不思議ですよね。お互いの手の内は知らないのに、どのメーカーも、同じタイミングで、同じことを考えてたりするじゃないですか。

G: やはり同じ人間、テクノロジーのブレークスルーのようなことを類似の時期に掴んで、そこで同時にスタートを切るわけですよね。で、どのメーカーも休まずに必死に走るから、結果、同じようなタイムでゴールを切ることになる。そこで一番でゴールするのがいいのか、一番の動きをよく見て、あえて二番でゴールするのがいいのか。これは難しい問題ですけどね。

K: ニコンは一番でゴールを切るメーカーですよね、見ていると。

G: コンサバな印象に見えるかも知れませんが、実はそうなのです。苦労して一番だったけど、二番手がもっといいのを出して来てひっくり返されると。そういう歴史です(笑)

K: 他にライバルメーカーさんとの交流はどのような?

G: あるメーカーさんですが、その開発部隊のみなさんをニコンミュージアムにご招待したこともあります。そのメーカーの偉い方がニコンユーザーでもあるのは知られた話ですが、開発をされている方の中にもニコン好きがたくさんいらっしゃって。

K: そうなのですね。「自分のところが一番。他社製品なんて絶対に使わないし、口もききたくない」という感じなのかと思っていました。

G: そういう了見の狭さはどのメーカーにも感じませんね。とてもオープンだし、みんな気持ちのいい人たちですよ。もちろん「なあなあ」の関係ではないですし、「自分のところが一番。いつか出し抜いてやろう」とはそれぞれ思っているでしょうけどね(笑)。ここにいる横浜だって、自社製品だけじゃなくて他社製品も使っていますよ。勉強になりますからね。

K: では、ライバルメーカーへの思いをひとことで言うとしたら?

G: もちろん敵対心はあります。どのメーカーも絶対に負けられない相手ですから、「ちくしょう」と思うこともあります。でも、彼らが自分たちのすぐ後ろを走って追いかけていたり、またある時には前を走っていて自分たちが必死にくらいついて行く、だからこそニコンの力もアップするわけで、そういう意味では敬意を払うべき存在ですね。

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やがて話題は、テーブルの上にあったニコンFとF2のことへ。同席していたニコンイメージングジャパンの広報・横浜氏はまだ20代。かつての自社製品として、これらのカメラのことを知ってはいたが、実際に手にするのは初めてらしい。特にニコンFのフォトミックファインダーつき、通称「違法建築」には興味津々のご様子。恐る恐る手に取り、「なんだこれは?」という顔で眺めている。

世紀の大発明「ガチャガチャ」

横浜氏(以下「Y」): どうしてこういうデザインになったのですかね?

G: 私がニコンに入った時には、すでに過去のものになっていたので分かりませんけどね、ものすごい大発明がここには隠れているのですよ。

Y: うーん、わかりません。どこですか?

G: レンズを外してみてください。

Y: はい。外しました。

G: そうしたら、もう一度ボディーにつけてください。

Y: はい。つけま…あ、この爪にピンが嵌りました!

G: で、そのまま絞りリングを持って…そう…絞りを一往復させる。

K: (横浜氏の手の動きに合わせて)ガチャ、ガチャ。

Y: へ?

G: 今の絞りリングを往復させた動作で、このカメラにレンズの開放値を機械的に記憶させているのです。その頭でっかちなファインダーの中には露出計が入っていますから、まずレンズの開放値をカメラが認識しないことには、測光ができないのです。

Y: 機械的に?すごい!

G: すごいでしょう?その絞りリングについている小さな爪、それは通称「カニ爪」と呼ばれていますが、それがどれだけの距離を往復したかで、開放値を認識するのです。絞りの目盛りを見れば分かる通り、明るいレンズなら距離は長く、暗いレンズなら短くなりますから。さらに、その爪の位置によって「今の絞り値」も同時に認識する。そのおかげで正確な開放測光ができるのです。レンズ側に複雑な仕組みは要らない。ただ、絞りリングに小さな爪をつけるだけ。大発明ですよ。

Y: うわー。感動。

G: その往復運動のことを、その音からとって「ガチャガチャ」って呼ぶのです。

K: このガチャガチャを誰が考えたかって、分かっているんですか?

G: それがね、図面に名前はあるのですが、いくら調べても本当に考えた人の名前が出てこないのです。これだけの大発明なのに。

K: へええ。

G: ただ一つハッキリしているのは、ニコンFが出た時点では、この発想はなかったはずなのです。ごく初期のFマウントレンズには、このカニ爪がついていないので。でも、その状態で出荷されたレンズにも簡単な改造で対応できる仕組みを考えたのですよ、頭のいい誰かが。

K: しかしそういう「名前は分からないけど、誰かがやった」って、なんかいいですね。ニコン100年、埋もれた歴史の1ページ、って感じがします。

G: そういうものが多いですよ、ニコンには。図面だけは残っているのですけどね、そこに至るドキュメントが残ってない。

K: しかしこの当時の図面ってどんな感じなんですかね。当然、手書きですよね。

G: もちろん、すべて手書きです。しかもきちんとした公差の記述がない時代もありました。するとどうなるか。

K: 製造の現場が大変。

G: その通り。図面はあるけどその通りに作っても正常に動かない。ではどうするかと言えば、現品合わせでなんとかしてしまうのです。

K: すごい話ですね(笑)

G: でも、カメラはまだ良い方で、当時は日本の多くの工業製品がそうだったんじゃないですかね。だから修理も一台一台やり方が違ったりして。逆に言うと、作り方で誰が作ったか分かるとか。中を開けて、「あー、これは山田さんだな」なんて(笑)

K: ああ、聞いたことあります、そういうの。

G: 2000年にS3、2005年にSPという、どちらも1950年代のレンジファインダー機を復刻したことがありますが、この時、図面は当時のものを使ったのです。そうしたら、やはり製造の現場は大変だったみたいですね。中古の現物と図面とが違って参考にするものがなく、作れる人がいなくて。みんなにやらせてみたら、ただひとり作れたのは根気のある若い女性だった、なんてこともあったようです。

K: 私たちは普段、デジタルの最新機種を使って仕事をしていますでしょう。一方で、こういう古いフィルムのニコンを愛でたりもするんです。これって、普段の仕事の反動から来る、単なる懐古趣味ではないんですよ。むしろその逆で、まったく古さを感じないんですよね。もちろん作られたのははるか昔ですし、中に詰まっている技術だって雲泥の差です。でも、なんというか、実は何も変わっていないんじゃないか?とも思うんです。

G: 分かります。そういう感覚になるカメラを、勝手ながらニコンは作っているのではと、自分でも思います。

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いよいよ夜も更けてきた。朝から丸一日、いろいろな話を聞いた。それでもまだまだ聞き足りない。それほど、後藤フェローとの会話は楽しく、うんちくに溢れ、示唆に富んでいた。しかし、きりが無いとはまさにこのことだ。そろそろおやすみタイムにしよう。

後藤フェローが伝えたいこと

K: では後藤フェロー、最後にメッセージをいただきたいと思います。まずはニコンの次の世代に伝えたいことを。

G: 二つありますね。まず一つは、カメラをもっと触って、写真を撮りなさいということ。カメラというのは社員にとっては単なる商品ですが、これは写真を通じて感動を生むための道具です。作り手、売り手であるわれわれ自身がカメラや写真が大好きで、そこに夢を託していないと、お客様にそれを伝えることなんてできませんからね。

K: その通りです。

G: 実は、横浜がいるニコンイメージングジャパンでは「フォトエネルギー研究所」という社内プロジェクトを立ち上げています。まさにその推進役の一人が彼なのですが、今朝、名刺交換で名刺を2枚もらったでしょう?一枚は普通の名刺。もう一枚は本人の顔写真と、裏に本人が撮った写真が入っているやつ。

Y: そうなのです。われわれはカメラメーカーであり、写真や映像と切っても切り離せない関係です。自分たちも最大限写真を楽しんで、それを会った人みんなに伝えたい。これをきっかけに写真の話をしたい。そんな思いでこの「フォトエネルギーカード」を作っています。自分たちの「フォトエネルギー」を上げるために行ってる活動の一環です。

K: (もらったフォトエネルギーカードを見ながら)これはいいですよね。「こういう写真をお撮りになる方なんだ」というのは、名前や肩書きなんかより、はるかにその人のことを、しかも一瞬で理解できますから。

G: そんな感じで、まずは写真好き、カメラ好きたれと。もし好きでなかったら、好きだと言う人の意見を聞け、と。もう一つは、市場に出てお客様の声にちゃんと耳を傾けなさいということですね。

K: なるほど。では、次にニコンのファンに伝えたいことを。

G: これはねえ、いっぱいあるなあ。

K: 全部どうぞ。

G: 今、100周年記念のファンミーティング キャラバンを全国でやっている真っ最中です(※取材時点。現在は終了)。そこで改めて感じたのは、ニコンファンが本当にたくさんいらっしゃるということ。それもね、もちろんベテランの方も多いですが、想像以上に若い方がたくさん来てくれているのですよ。それが嬉しくて。そして、そういうニコンファンの胸の内にあるものは、一人の例外もなく、ただひとこと、「期待」なんだと思います。

K: (深く頷く)

G: ですから、まず申し上げたいことは、みなさんから元気をいただきました。どうもありがとうございます、ということ。そしてもう一つは、やはりその期待に応えたい。ニコンファンのために次も何かがしたいという気持ち。これはもう、理性的にではなく、感情的な部分でそう思っています。だってね、今やっているキャラバンでも、ドアオープンと同時に「100周年おめでとうー!」って言いながら入ってくる人が、たくさんいらっしゃるのですよ。3時間も前から並んで。もう涙が出ますよ。そういう人たちに、なんとか報いたい。

K: 後藤フェロー、ニコンにいて本当によかったですね。

G: 今朝、第一志望だった会社に振られた話をしましたが、「仕方がないから、カメラメーカーでも受けてみるか」と、求人の掲示板を見たら、2つのカメラメーカーが求人を出していて、一番上にあったのが日本光学(現ニコン)でした。「じゃ、まずは上から」ぐらいの軽い気持ちでした。私は決して運命論者ではありませんが、今振り返ると、やはりいろいろ感じるものがありますね。

K: 遅くまでありがとうございました。今夜はゆっくりお休みください。

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このようにして、朝から深夜にまで及んだ後藤フェローへのインタビューは終わった。長時間にわたっていろいろな話を聞かせていただき、そのエッセンスは盛り込めたと思うものの、所詮ほんの一部。スペースの都合もあるが、「これはオフレコだけどね」で始まる話も多く、その抱腹絶倒ぶりや身につまされる感じを共有できないのが、つくづく残念である。

インタビューの中でもあったように、取材はファンミーティング キャラバンによる全国行脚の合間に行われた。疲れが溜まっておられるのでは?と心配したが、実際にお会いしてみればそのようなお顔は一切見せず、いやそれどころか、はるかに年下のわれわれよりもまったく元気で、溌剌とされていたのが印象的であった。もっとも、何かを成し遂げてきた人で、エネルギッシュじゃない人なんて見たことがない。そういう人は総じて元気で若々しく、好奇心旺盛。そして、子供のようなキラキラした目で、自分が大好きなもののことを話す。後藤フェローもそういう人であった。さらに、お話を聞いているうち、ニコンという会社がより身近に感じられるようになったのもこのインタビューの収穫。それが、この記事から少しでも伝わればいいなあ、と思う。(終)

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( 2017.12.21 )