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ニコン100周年記念 PY特別インタビュー 後藤フェローにいろいろ聞きました。

第2回 焚き火を囲んだヒソヒソ話

いきなり余談から入るが、PYのロケ地として一番よく使われるのは千葉県ではないだろうか。都心からのアクセスがいい上、海あり山あり(とは言え、千葉県の最高峰は愛宕山の408m。これは全都道府県中で最低である)。旧所名跡も多い。ついでに美味しいものもたくさんある。ロケでは限られた時間内にどれだけ多くのバリエーションを撮れるかがポイントになるが、その点で千葉県ほど効率のよい場所はない。編集部員はみんな千葉県ラブだ。

さて、サーキットでのクルマ遊びを終えて向かった先は、千葉県の香取市。いい感じの夕暮れがやってきた。遠くに見える森のシルエットが美しい。朝晩はかなり冷え込む季節になり、焚き火で暖を取りながらインタビュー再開である。クルマの話はサーキットでさんざんしたので、さっそくカメラの話を…と思いきや、やっぱりね。

聞き手:K(PY編集部)
写真:Z II(PY編集部)
文:NB(PY編集部)

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後藤フェローのバッグから出てきたもの

後藤フェロー(以下「G」): ちょっと、これ見てください。

編集部K(以下「K」): うお!何ですかこれ。

G: 昔の自動車のパンフレットです。中学生の頃、集めたものです。本当は門外不出ですが(笑)、Kさんもクルマが好きだというので今日は特別にお持ちしました。

K: こんなにたくさん!これはすごい!

G: 中でも、一番すごいのはこれです。

K: ポルシェ901?

G: そう。ポルシェと言えば「911」ですが、実は最初、「901」という名前だったのです。

K: そうだったんですか!

G: で、「901」で生産を始めたのですが、その名前をフランスのプジョーが先に商標登録していたことが判り、途中から「911」に変わったのですよ。

K: つまりこのパンフレットは、名前が変わる前のもの、ってことですね。

G: 印刷が間に合わないので手書き、しかも旧字体で「名称変更」と書いてありました。さらにすごいのは、「901」という名前で作られたポルシェはわずか82台なのです。

K: 本当にですか!この世に82台しかないクルマのためのパンフレット!むちゃくちゃ貴重じゃないですか!

G: しかもこれ、なぜかフランス語。だから、当時の私はポルシェというのはフランスのクルマだと思っていたのです。ポルシェがドイツのクルマであることは今じゃ誰でも知っていますが、それぐらい、外車が遠い存在だった時代です。

K: これ、ヤフオクで高く売れますよ(笑)

G: ははは。綴じるために穴まで開けていますからダメでしょう(笑)。当時の後藤少年には、まだこのパンフレットの価値が分からなかったのですね。

K: そんな時代からパンフレットを集められていたぐらいですから、後藤フェローのクルマ好きは筋金入りですね。自動車メーカーに就職するという考えはなかったんですか?

G: ああ、なぜかその考えはまったく無かったですね。

K: 今日、サーキットで「電気を勉強していたので、就職先の第一志望はカメラメーカーではなかった」とおっしゃっていましたが、どうして電気の勉強をしようと?

G: これが本当に単純な話で、私の親戚に、建築屋、機械屋、それに商科を出ている者がいたのですよ。なので、彼らと同じ道に進んでも敵わないなあと思って。じゃあ電気かなと。

K: は?それだけ?

G: それだけです。何かを始める理由なんて、そんなものでしょう?(笑)

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今回のインタビューには、(株)ニコンイメージングジャパン 広報宣伝部の横浜氏も同席していた(写真左)。ここでKは横浜氏に後藤フェローのことについて聞く。

K: 横浜さん、後藤フェローと今までに面識は?

横浜氏(以下「Y」): 今回の取材の件でメールのやりとりはずいぶんしましたし、今やっている100周年記念の「ファンミーティング キャラバン」でも毎回同じ空間で仕事をしているのですが、実はちゃんと話をするのはこれがほぼ初めてです。

K: 広報というお立場でもそうなんですか。

Y:はい。そう簡単にお話ができる相手ではないですね。

K: ニコンの社内で、後藤フェローはどんな存在なんでしょう?

Y:「すごい人」ですね、やっぱり。そもそも後藤フェローって何者?って思っていましたが、すごい人ということだけは理解していました。同じニコンで働いてはいるものの、後藤のことはメディアを通じて知る、という感じで。私は入社してからしばらくは営業をしていましたが、後藤が登場する本を読んだこともありましたよ。その時は「へえ、そういう人がいるんだあ」ぐらいに思っていた人が、今こうして隣にいるというのは、すごく不思議です。

K: カメラメーカーで後藤フェローのようにお顔とともに存在が知られている人って、ちょっと見当たりませんよね。こういう風に広く知られるようになったきっかけは何だったのですか?

G: そんなに言われると恐縮ですが、それはF5の時です。マーケティング部門に私と同じ「後藤」という者がいて、「売る後藤と作る後藤」で結託しようと。「シェア奪還のために俺がいっぱい宣伝するから、お前は顔を出して」と言われたのが、実はいきさつなんです。

K: では、自然とこうなったわけではなく…

G: 意外と戦略的に売り出されました(笑)。そのうえ出たがりですし。

K: そうだったんですか(笑)。話はニコン入社当時に遡りますが、ニコンで一番最初にした仕事というのは?

G: それがですね、せっかくニコンに入ったのに、カメラではなかったのです。いや、カメラといえばカメラですが、赤外線映像装置(サーマルカメラ)の開発部署に配属されたのです。表面温度を測定してその分布を見たりする装置ですね。ちょっと残念でしたね。なんだ、カメラじゃないのかって。でも素晴らしい先輩に恵まれてたいへん楽しく仕事をしました。残念ながらその事業はほどなく立ち消えになり、そこでカメラの設計に呼ばれたのです。それはそれで嬉しかったですね。

K: 最初はどんなことを?

G: まずやったのは絞り制御の設計です。超望遠レンズの絞り制御をエレクトロニクス化することが検討され始めた頃で、電気を知っていた私が呼ばれたわけです。また当時出ていたのはF2ですが、F2を電気的に改良する、という試作研究にも少し参画しました。実はそれがのちにF3に繋がるんです。だから私が最初に量産品に携わったのはF3から、ということになります。

K: F3の開発というのはどんな感じだったんですか?

G: 私にとっては初めてのことでしたし、F一桁台を作るって、やっぱりプレッシャーがかかるものなのですよ。実際、電気屋のやることは山ほどありましたしね。F3は夢中でしたが、そのあとはとにかく今でも思い出したくないぐらい、大変な日々でした。

K: FからF2、F2からF3の流れは割としっくり来るんですが、次のF4でドラスティックに変革しましたよね。F4ではどんな立場で関わられたんでしょう?

G: F4はですね、「電気屋の総元締め」とでも言えばいいでしょうか、エレクトロニクス面の統括でした。ご存知の通り、F4というのはとにかく「エレクトロ二クスの力」をめいっぱい詰め込んだカメラでして、ボディー駆動AF、マルチパターン測光、フラッシュ制御、フィルム巻き上げ、バッテリーパック…全部エレクトロニクスです。その他にもユーザーの声をみんな集めて集大成したようなカメラで、おかげで大型化しました。ちょっと集め過ぎちゃったんですね(笑)

K: でもF4っていいカメラですよね。僕は大好きです。

G: 台数から言えば「成功したカメラ」と言えるでしょうね。あ、どれが成功しなかったかは聞かないでください(笑)。良くも悪くもとにかく反響は大きかったですし、AFがプロの必需品として受け入れられました。

K: F4から外装がエンジニアリングプラスチックになりますが、あれはどういう理由で?

G: F4はF3から引き続いてジウジアーロのデザインですが、あのデザインを実現しようとしたら、エンプラ以外では不可能だったのです。試作品は機能確認が目的ですので金属で作成しましたが。

K: 黒塗りのボディは使い込むと下から真鍮が出てきて貫禄がつきますが、エンプラはテカテカになるだけ。でもあれはあれで味があるなあと思うのです。僕は嫌いじゃありません。

G: さすが、分かっていらっしゃる(笑)

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K: F4の時、デジタルカメラ時代の到来はもう想定されていましたか?

G: いえ、まったく。デジタルカメラという概念はすでにありましたし、宇宙のような特殊環境で使うカメラでは実用化に向けての研究やQV-1000Cもありましたが、コンシューマー向けとしてはまだ見えていませんでした。

K: そしてF5が出ます。F5ではどのような関わり方を?

G: 「電気屋の総元締め」から一段ステップアップして、「全体の総元締め」を務めました。

K: なるほど。ここで表舞台に出られ始めるわけですね。

G: はい。戦略的に(笑)

K: F5は憧れましたね。特にあのシャッター音。

G: 今でもいいカメラだと思いますね。F5って、F4とは打って変わって「わりきり」のカメラなのですよ。でも、それが功を奏しました。今のニコンのカメラに対する考え方を確立したカメラ、と言えるでしょうね。

K: F5の時はデジタルのことは?

G: 完全に見えていました。もう、すぐそこまでやってきていると。実は80年代前半には、すでに社内でデジタルカメラの検討チームが立ち上がっていたのですよ。デジタル化の機運は高まっていましたね。前年にプロ用のE2もありましたし。

K: そんなに昔から。

G: そこで展開されたのが「特許作戦」です。ひたすら特許申請をしまくるという(笑)。でも、今それらの特許を見ると、もう現代のデジタルカメラがそこで生まれていたのが分かります。「これがあったから今のニコンがあるんだ」って、心からそう思います。

K: D一桁台の礎になったカメラって、F5だと聞きましたが?

G: そうです、F100も一部に。機構的には完成されていたカメラでしたから。

K: 実は、私が一番最初に本格的に使ったカメラって、F100なんですよ。F5の廉価版という位置付けの。

G: それは幸運なスタートでしたね。あれは良かったでしょう?大成功したカメラです、F100は。

K: 廉価版とは言え、F5との落差みたいなものをまったく感じませんでした。

G: 機能は省略しても、性能は落としていませんからね。

K: そして順番的にはここでとうとうデジタルのD一桁台が出るんですが、行きがかり上、まずF6のことをお聞きします。これはもう、最後にフィルムを出しておこうというお考えで?

G: そうです。D1、そしてD2も出た後で、プロは完全にデジタルへ移行することが分かっていましたから、ターゲットはハイアマチュアでした。だから最初からロングランを目指しました。感材がフィルムというだけで、設計思想や一部の構成部品はD2とまったく同じです。

K: もうどのぐらい経ちますかね…

G: 13年経ちましたね。もう少しでニコンFに並びます。

K: まだまだ長く売って欲しいですね、いちフィルムファンとしては。もうほとんど出ないんでしょうけど。

G: ええ、ごくごくわずかですねえ。

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Fマウントへの思い

K: これはぜひ聞いてみたかったんですが、Fマウントをやめようという動きは、今までに一度も無かったんでしょうか?

G: いや、ありましたよ。何度もありましたが、大きなピンチは2回。

K: それはいつですか?

G: 一つはAFが出てきた時。もう一つはデジタルになる時。

K: やっぱりそうだったんですね。それでも今、まだFマウントのままです。変わらないでいられたのはどうしてなんでしょう?

G: 捨てるのは簡単です。だけど、Fマウントが生まれたのは1959年ですよ。戦争が終わってまだ10年ちょっと。食べるものだって、まだじゅうぶんには無かったような日本で、あのマウントを考えた大先輩たちがいたのです。それまではデッケルとかスクリューとか、一眼レフにはその程度の、それも外国発祥のマウントしか無かった時に、ニコンのOBは何を考えてFマウントを作ったのか。それを思ったら、やっぱり捨てられませんよ。もちろん気持ちの問題だけではないのです。ちゃんと、AFだろうと、デジタルだろうと、Fマウントのままで行けるということを論理的に実証した人たちがいたんです。それがFマウントの歴史なのですよ。

K: いろいろ葛藤があったんだろうなあということは想像していましたが、今の話を聞いて、よく分かりました。

G: 実はFの開発中、米国の販社から「マウントはエキザクタにして欲しい」という要望があったのです。今では信じられませんが、当時はエキザクタマウントというのが大きな勢力でしたからね、特に欧米では。

K: それなりに発言力がありますよね、当時の米国の販社と言えば。

G: そうです。彼らの言う通りにエキザクタにしていたら、巨大なマーケットである米国で一時的には売れたかもしれません。でも、ニコンはその要望を跳ね除けたんです。あの時、もしそうしていたら、今のニコンはどうなっていたか。

K: そのFマウントの頂点と言えば、やっぱりF4ですか?

G: そうですね。F4のFマウントは世界一複雑なマウントでしょうね、間違いなく(笑)

K: さて、そろそろ焚き火の薪も尽きてきました。暖かい部屋に戻って、今度はデジタルのお話をお聞きしましょうか。

(続く)

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( 2017.12.12 )