PHOTO YODOBASHI
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vol.02 大谷駅
大阪、京都、滋賀を結ぶ京阪電気鉄道。その路線網のひとつに、御陵(みささぎ)駅と、びわ湖浜大津駅を結ぶ「京津(けいしん)線」があります。御陵駅以西は京都市営地下鉄東西線と直通運転していますが、御陵駅以東は大化の改新で制定された「逢坂の関」を越える登山区間(最大勾配61パーミル)を駆け、上栄町駅付近からびわ湖浜大津駅は路面区間となっています。そんなバラエティーに富んだ京津線は「劇場路線」とも呼ばれ、乗っているだけでもかなり楽しめます。今回ご紹介する駅は、その登山区間に位置する「大谷駅」。ホームはなんと40パーミル(1000mあたり40mの高低差)の勾配上にあり、山岳鉄道を除き日本最大の急傾斜となっています。では早速降りてみましょう。乗降客数も少ない駅ではありますが、観光の方もちらほらおられますね。
( Photography & Text : TAK )

今回のお供:
SONY ZV-E10 II + E PZ 16-50mm F3.5-5.6 OSS II
コロンとして可愛いでしょ?4:2:2 10bit動画だって撮れてしまうVlogカメラですが、バッグへの収まりも良く、スチルカメラとしての使い勝手も抜群なのです。ファインダーこそありませんが、最近その辺りは気にしなくなったというか、あればあったでいいし、無けりゃ無いなりの撮り方をするだけです。レンズはキットレンズとしても発売されている標準パワーズームレンズ。AFも写りも何の不満もないですし、沈胴式で薄型になるメリットもあります。とにかくこのコンパクトな組み合わせ、旅にもぴったりなんですよね。
大谷駅周辺
まずはホームの特徴がわかる、40パーミルの眺めをご覧ください。駅名看板、ポスター枠、ベンチ、、、どれが水平なのか。カメラの水準器が頼りです(笑)。徒歩を基準に考えると大した勾配ではないようにも見えますよね。しかしこれは鉄道。鉄の車輪が鉄の線路に点で乗っかっている鉄道は、ゴムタイヤがアスファルトに乗っかる自動車よりもはるかに摩擦が少なく、それを利用して惰性走行する際に極めて高い移動効率を発揮できる輸送手段です。しかしこういった勾配では低摩擦が仇となり、空転の可能性が高まり停止さえ容易ではありません。もちろん乗客が不安を感じることは皆無ですが、その安全な移動を実現する車両の性能や保線の技術たるや。今の「当たり前」は先人の努力の積み重ねなのだなと、改めて感じました。
ホーム横の踏切から滋賀方面を望んでみました。踏切通路の上から、列車接近警報の鳴っていない時に撮影していますが、望遠側で撮ると圧縮効果で勾配がさらに強調されますね。前方にはvol.1の五反田にも通じる国道1号線で停車中の車が。現代の東海道ともいえる第一級の幹線道路ですが、その割にここは片側1車線でよく渋滞するのです。それを電車でスイ〜ッと抜いていくのは快感であります。
視点を少し上げて、付近の歩道橋から京津線と国道1号線が並走する様子も眺めてみます。この国道1号線、実は旧東海道本線が廃止された後にそのまま道路となったものです。ちなみに旧東海道本線はこのまま写真手前方面に下り、現在の名神高速京都東ICあたりからしばらくほぼ同じルートで南下し、伏見区藤森あたりで奈良線と合流する、つまり大きく迂回する形でした(トンネルを掘る技術が発展途上だった頃のパターン)。そして途中の山科駅も今よりもかなり南、現在の京都市営地下鉄東西線の小野駅付近にありました。鉄道唱歌第45番山科駅も、今の山科駅から見えるものとは違った風景を描いています。
大石良雄が山科の
その隱家(かくれが)はあともなし
赤き鳥居の神さびて
立つは伏見の稻荷山
大石良雄さんは、あの大石内蔵助です。確かに今の山科駅エリアよりも外れにあり、討ち入りの計画を立てる隠れ家として、洛中よりはるかに都合が良さそうに思えますね。
大谷駅改札口を出るとすぐ旧東海道で、雰囲気のある坂を逢坂の関跡方面へ登ってゆくと左側に蝉丸神社が見えてきます。蝉丸とは平安時代の盲目の歌人、琵琶奏者で、百人一首の歌でも有名です。
これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関
(現代語訳)これがあの有名な逢坂の関か。京から出て行く人も帰る人も、知っている人も知らない人も、みんなここで別れ、出会うんだなあ。
「逢ふ」と「会ふ」はダジャレ、いや掛け言葉。「行くも帰るも」「知るも知らぬも」のリズム感も素晴らしく、思わず吟じてみたくなるような名歌中の名歌です。
逢坂の関は、東海道、中山道、西近江路、北国街道から全てが集まってくる交通の要衝、そして京の玄関口です。無数の往来を見て、「これやこの」と感嘆し、色々と思うところあったのでしょう。そしてもしここが平地だったら、ここまでドラマチックな気持ちになったでしょうか。当地と琵琶湖畔との高低差は約70m、東海道終点の京都三条大橋との高低差は約118m。ビルの階に例えると20階、30階ほどの高さです。荷物も人生も背負って登ってきた者同士がすれ違うからこそ、湧き上がってくる感情があるのではないかと思います。
写真を撮る行為には一歩引いた目で観察するような側面もありますから、蝉丸さんの気持ちもわかる気がします。多忙な現代人は徒歩ではなく自動車でこの坂を超えるので、中々エモい気持ちにはなれません。今は空港や港などでそんな気持ちになるのかもしれませんね。ともかく、なんとかこの気持ちを写真で表せないものか。と、ちょうど坂の頂上付近の良いところにおあつらえ向きのパネルが。あまり目立つものではないのですが、ここに貼るとはセンス抜群ですよ。ここ、いつもは車でしか通らないんですよね。まあ信号停車の位置次第では見えていたはずですが、こんな洒落たものがあるとは大谷駅を訪れるまで全く知りませんでした。どんな駅でも、やっぱり降りてみるものですね。目的のある移動だけではなく、時にはカメラを片手にふらっと降りてみる。自分の生活には縁遠く見える駅でも、必ず営みがあり何らかの普遍性が見えてくるものですし、意外にも生活に結びつく何かに出会えるかもしれません。
先程の歌碑は逢坂の関があったとされる、この場所付近にあります。ただ正確な場所は定かではなく、他の例に漏れず「諸説」あるようです。とはいえ、ここが現在の地形での峠の最頂部なので、アピールするにはわかりやすいポジショニングですね。今でこそ国道、鉄道、そして旧東海道が並走するだけの幅がありますが、関ができた平安時代当初はもっと狭かったことでしょう。ではそのまま「越境」して、滋賀県大津側へ坂を下ってみます。
滋賀県側へ坂を下る
坂を下ると途中にもう一つの蝉丸神社である、関蝉丸神社上社があります。往来の激しい国道ですが、この神社だけのための歩行者信号、横断歩道が設けられています。ボタンを押すとすぐ変わってくれるのでありがたいですが、日本の大動脈をたった一人のカメラ好きが止めてしまうのも申し訳ないような、、、。止まっていただきありがとうございます。神社自体は狭い敷地に山に沿うように建てられていて十分な引きも取れないので、ここだけは超広角レンズがワンポイントで欲しくなりました。
大谷と大津方面の次の駅「上栄町」の区間には60パーミルさえ超える勾配もありますが、最新の800系電車は力強く京都方面へ登っていきます。上空に架かる二つの橋は名神高速道路。鉄道も車も人間も行き交う現在の逢坂の関を見たら、蝉丸はどんな歌を詠んでくれるでしょうか。
さらに坂を下ると左手に旧東海道本線、逢坂山隧道の遺構が残っています。石額には三条実美揮毫(きごう)の「楽成頼功」の文字が。日本人技術者が主体となって設計施工した初の山岳隧道で、あの生野銀山の労働者がツルハシやノミを使って手彫りで掘り抜いたとのことです。そんな人々の功に頼って落成したという意味を込めての揮毫ですが、落成の「落」を縁起が悪いからと「楽」に変えた配慮も見どころです。
トンネルは少しだけ中に入れるようになっています。2024年9月、土木学会選奨土木遺産に認定されました。
その右手には後の複線化に伴い増設された、第二の旧トンネルが。この奥へと当時の東海道本線は伸びており、先述した通りルートも現在とは異なっていました。ちなみに現在の逢坂山トンネルはここより北にあり、線路もより直線的に山科駅へと伸びています。列車の運行数が増え、長いトンネルを掘る技術も開発されたことで旧トンネルは廃止され、新たな逢坂山トンネルにその役目を譲ったのです。こういったインフラの利用法の変遷も、大谷駅周辺の見どころ。ちなみにこの逢坂山隧道、現在は京都大学防災研究所附属地震災害研究センターの観測所として使われています。近畿地方の活断層「花折断層」と「琵琶湖西岸断層」の近くに位置しており、断層の活動に関する重要なデータを得るのに都合が良いのだそうです。
さらに下りていくと何と三つ目の蝉丸神社が!関蝉丸神社下社です。境内を京阪電車が貫いていて、鳥居の前には蝉丸バージョンと思われる滋賀名物「飛び出し坊や」が。山間で日中もひんやりしたエリアなのですが、蝉丸推しの熱は凄まじいものがあります(付近を貫く名神高速のトンネルも「蝉丸トンネル」)。百人一首の何が面白いかって、今の世にも通じる普遍性がたったの「みそひともじ」に濃縮され、心情や環境によって様々な解釈ができたり、共感できる部分も多いからなのだろうと思います。蝉丸がカメラを持ったら、きっとすごいスナップを撮るのではないでしょうか。
関蝉丸神社下社からさらに坂を下りていくと、京津線が現在のJR東海道本線のトンネルの上を通るポイントに辿り着きました。JRでは上関寺跨線橋と呼んでいます。両方の鉄道が交差するシーンが撮れたら良かったのですが、そう上手くはいきませんね。
世も道も 時超え巡り 逢坂の 鉄音響く 大谷の駅
これ以上坂を下ると次の上栄駅に着いてしまいますので、今回はこの辺で。京津線大谷駅は文字通り山あいの小さな駅で、往年の賑わいこそありませんが、あの逢坂の関の雰囲気を壮大なタイムスケールで体感できる、ユニークな駅です。逢坂の関は中大兄皇子による大化の改新後に制定された日本三関のひとつであり(他は不破と鈴鹿)、以来無数の往来を見守ってきました。中大兄皇子の相棒、中臣鎌足はのちの藤原鎌足。共に律令体制を築き、今の大津市の大津宮に飛鳥宮から遷都しました。逢坂の関は時代を超えて交通の要衝であり続け、遷都から1275年後、同じ場所で初の純国産山岳トンネルが作られたのです。
大谷駅は日の当たる時間も少なく、フォトジェニックで分かりやすい光景は撮りづらいかもしれません。ただ、蝉丸の歌に触れる中で気付かされることがありました。人は道を切り拓き、使い道は時代と共に変わり、転用されたり消え去る道もあります。そしてそのスピードは人間の寿命よりもはるかに緩やかで、時代の痕跡が各所にはっきりと残されています。写真に写るのはカメラを構えたその時の眺めですが、今に至るまでの歴史、そしてこれからどんな風景に変わってゆくのか。あれこれ考えつつシャッターを切るのは極上の贅沢です。大谷駅は京津線によるアクセスも良好で、京都市内からは地下鉄から地上へ出る変化を楽しみながら、大津市内からは路面電車から登山電車に変わる様も楽しむことができます。お気に入りのカメラご持参で、ぜひお越しください。
(おまけ)京阪京津線電車脅迫脱線事件
字数字面とも「新幹線大爆破」を凌駕していますが、この駅にまつわる大事件をご紹介します。時は1930年11月9日、大谷駅で5人の覆面姿の男達が乗り込み、全員を脅迫降車させた後、ブレーキを解除したまま下車。無人無制御の列車は勾配を京都方面へ下り、次の追分駅の踏切で脱線大破、男達は逮捕あるいは自首といった顛末でした。実行犯は京津線の労働組合関係者で、要求が決裂しての犯行だったとのこと。今ではちょっと考えられない内容ですが、当時の労働環境など、考えさせられるものもあります。
( 2025.04.17 )
今回のお供キット。コンパクトで一通りのことができるので、小旅行にもぴったりです。
こちらはセンスの冴え渡るホワイト。
外国語に翻訳することで初めて見えてくる和歌の機微。来日して日本に魅せられた筆者は、百人一首を翻訳する中で日本移住を決めたそうです。
この俳優陣。やはりオリジナルは素晴らしい。
京都出身の絵師、吉田初三郎が手がけたデビュー作「京阪電車御案内」を含む、全国の鉄道鳥瞰図を収録。昭和天皇が「これは奇麗で解り易い」と評した鉄道鳥瞰図は、今見ても美しく解り易く、写真を超越した魅力があります。
現代の風景ではありませんが、これは、あのコダクロームで撮られた貴重な記録。それで十分ですよね。