日常の風景を探す旅
Vol.1 - Landscape
風景という言葉を検索してみると「Landscape」という翻訳が出てきます。写真を始めた頃、このLandscapeという言葉に憧れて、アンセル・アダムスの写真集をよく見ていたものでした。風景写真とはこれだよね、という思い込みとでもいいましょうか。誰も知らない前人未到の光景こそが「風景写真」であり、そんな場所を探すことが風景写真家なのだと。ところが、いざ日本国内で撮ろうと思うと、そんな前人未到の大絶景が無いことに気づかされます。どこへ行っても家があり、人が暮らしている。国立公園と呼ばれるところでさえ、人の気配がします。昔アメリカとカナダを旅した時に感じた圧倒的なスケール感には到底叶わないのです。思わず「やっぱり日本でLandscapeなんて無理だな」と敗北感にも似た感覚に囚われそうになったものでした。でも、果たしてそうでしょうか。そもそも、欧米的Landscapeという感覚が、日本の箱庭的風景にはマッチしないような気がするのです。日本人は古来より、日常のありふれた情景から「美」を見出してきました。野に咲く小さな花、庭に飛んでくる鳥、池で泳ぐ魚。暮らしの中に表現のモチーフがあり、それをよく観察することで、大きな世界観として描いてきたと思うのです。そのことが、まさに日本的「風景」であり、今私が取り組んでいる「風景写真」なんて、欧米の言葉では表現できないジャンルなのではないでしょうか。
( 写真 / 文 : T.Nakanishi )
季節は冬ですが、こんな光景が「Landscape」という言葉からイメージする風景かもしれません。人を寄せ付けない圧倒的な自然美とでも言いましょうか。確かに美しく、絶景と呼べる景色ですね。この写真は北海道大雪山系で撮影したものですが、このようなLandscape的写真を撮れる場所は日本では限られています。
桜なんていうのはまさに日本的美意識の象徴と言えるでしょう。自然に育った山桜もありますが、その多くは人の手によって植えられ、管理されたもの。どう美しく愛でるか、ということを古来から考えていると思うのです。
日本の風景の美しさは、人の気配がするところにあると思っています。自然のままではなく、人が積極的に関わることによって維持されてきた美しさ。そこには大絶景のイメージは皆無ですが、しみじみとした美しさを感じることができます。
道路脇で風に揺れるススキ。日本人ならばこの情景を見て秋を感じない人はいないでしょう。当たり前のようにある草木の変化に四季を感じる。繊細な日本人ならではの写真表現があるような気がしています。
畑の脇にあるため池が凍り始め、模様を描いています。土手には雑草が生い茂っているのですが、その存在すら美しく感じます。雪舟や尾形光琳ならどう描いたのだろうと想像しながら撮影します。カメラという絵筆を用い、日本的美意識を描く。日本人だからこそできることを追求したいものです。
日本的風景写真に道は欠かせません。人工物として嫌う向きもありますが、私は積極的に被写体にしています。人がいて、この風景が維持されている。そこに、ストーリーが生まれて、作品に深みを与えるような気がします。
毎日の発見に絶景を見る
ちょっと小難しい話になってしまいましたが、このコラムでお伝えしたいことは「日常の風景を探そう」ということです。私自身、自然の近くに身を置き、来る日も来る日も撮影することを日課にしています。大絶景との出会いは少ないけれど、毎日発見する光景が絶景だという思いで撮影に望む日々。昨日まで気づかなかった花が今日は咲いていて、「さあ撮って」と呼んでいる。そんな自然の小さな変化に敏感になれることの素晴らしさを、少しずつですがお伝えしていきたいと思っています。今回は、そんな入り口のお話。次回からは、被写体別、テーマ別で、私流風景の探し方をお届けしていきたいと思っていますのでお楽しみに。
( 2016.08.18 )