LEICA M-D (Typ262) | SHOOTING REPORT
利便性を再び奪い去った問題作
ライカがM60をリリースした時点で、市場の反応を見ながら"背面液晶レス"のレギュラーモデル化についてその可能性を示唆していました。そして遂にそれが現実となったわけですが、テストリポートの際にボディを手渡されて思わず「ほんとにやるんだ」と笑ってしまいました。自分自身はプライベートの撮影で未だにフィルムM型をかなりの頻度で使っているわけです。さらには黎明期から積極的にデジタルカメラも併用してきました。つまりこのモデルを否定する材料を私自身は山のように持ち合わせているわけです。したがって、実に楽しみにしていたテストでした。レンジファインダーカメラは、構造上パララックスから解放されることはありません。またファインダー視野率も絶望的に低い。ピント送りも構造上精度を極限まで高めるのは難しく、ピントブラケット(?)が場合によっては必要であったりします。つまり意図したとおりに撮影するのが大変難しいカメラです。ライカM(Typ240)で、背面液晶およびEVFでの撮影が可能となり、レンジファインダーカメラの弱点をことごとく克服しました。厳密なフレームやピント送り、確実なパースペクティブの確認が不要な場合は通常通りファインダーを覗いて撮影、きちんと写ってくれなければ困るシーンでは、センサーからのスルー画を見て撮影というスタイルを可能にしたのです。そして、再びそれを捨て去ると。挙げ句の果てには撮影した画像の確認すら拒む、液晶モニタの撤去。つまりは、フィルムM型ライカの感材をフィルムからセンサーに置き換えただけ、というノリです。フィルムよりは後処理がいろいろな意味で楽かもしれませんが・・・。
さて実際に撮影してみて感じることを記しましょう。それも一言で。「なつかしい」。
感度を設定して、あとは撮影可能枚数とバッテリー残量をファンクションボタンを介してファインダー上で時々確認するのみ。現場で画を確認できませんから、ファインダーを覗きつつシャッターを切ったらそれでおしまい。モニタを見ながら現場で詰め切るという作業は不可能です。フィルムの36カットという撮影可能枚数とフィルム交換という呪縛がないだけで、あとはフィルムカメラの撮影と同じです。フィルムよりは高感度特性が高く、フィルムカメラのように陽が沈んだら飲みに行くというほど"撮影終了時刻"は早くはありませんが。プライベートで撮影した未現像のフィルムが自宅で大量に積まれていますが、ライカM-Dで撮影したカットをPCで確認するまでしばらく寝かしてしまいました。こんなところまでそっくりです(笑)フィルムの場合、自前処理でモノクロームという前提ですが、どうがんばっても画を確認するまでに1時間程度は必要です。画に執着しようにも物理的限界のハードルが高いのです。ライカM-Dの場合、まだハードルは低いのですが、自分の撮影したカットと適度な距離を置くことになるのは事実ですね。
ファーストカットが最もよい、よくあることです。
これは万事に通じることだと思いますが、写真撮影もシャッターを切るその瞬間より、はるか前に撮影は既に始まっているのかもしれません。段取り八分、仕事二分という話ですね。現場で出来ることが二分という割合であれば、それはおおよそ「現場の対応」に費やされ、現場での想像や作り込みのような作業は溢れてしまいます。このようなことがもし撮影カットの善し悪しを決める本質論だとするならば、このカメラは撮り手にかえって「自由」を与えるのかもしれません。自らである理由ですね。フィルム撮影のハードルは年々高くなる一方です。これだけデジタルカメラが流通し、撮影したカットの説得力が積み増され魅力が増してくると、どうしてもフィルムの流通量が目減りし、楽しむコストはうなぎ登り。暗室をなくしたという周りのフィルム愛好家の声は7-8年前から聞こえはじめ、最近ではそんな話すら聞くこともありません。では、技術革新でカメラはどんどん便利になったけれども、最低限かつ現実的な利便性だけ担保しつつ、写真撮影に集中できるモデルをリリースしよう、とまあ、こんなことなのだろうなと感じます。これを問題作と言わずしてなんぞや。間違っているということではありません。問題を提起したモデルということです。みなさんは、どう感じますか? 手にしたときのご自分を想像しますか?
( 写真・文 / K )
( 2016.05.27 )